養泉寺の沿革

<寺院名>

真宗大谷派 光澤山 養泉寺

 

<住職>

倉井光弥(養泉寺20世住職)

 

<宗派>

真宗大谷派

 

<本山>

真宗本廟(東本願寺)

 

<歴史>

寺泊一里塚の養泉寺は、文禄3(1594)年、信濃国(長野県)水内郡長沼村の歓喜踊躍山浄興寺の僧浄明が開いた真宗大谷派の名刹である。

浄明はもとの名を金井藤之丞中原安範といい、戦国時代に信濃を攻略した武田信玄に仕える武将であった。永禄4(1561)年の川中島の合戦には、上杉謙信の越後勢と激しく戦い武勲を挙げたという。この合戦には、夏戸城主志駄義時が上杉軍の一武将として出陣し、19歳の若さで壮烈な討死を遂げたが、両者は奇しくも同じ戦場で戦ったのである。

天下統一の夢半ばにして、天正元(1573)年、武田信玄が54歳で病没した時、家臣金井藤之丞中原安範は世の無常を感じて、戦場で死んだ敵味方の霊を弔うために出家を決意した。そして翌2年、川中島の戦火を浴びた大田庄長沼の浄興寺で剃髪し、釈浄明と改名した。

別の記録によると、浄興寺はこの時すでに信濃国から越後国の春日山城下に移っていたとある。すなわち、川中島の兵火で全焼した浄興寺は、永禄10(1567)年に上杉謙信の招きで移転したのである。しかし、由緒ある寺なので坊や末寺がここに残っていたのであろう。

浄興寺は現在、上越市寺町に浄土真宗浄興寺派の本山として立派な伽藍を構えているが、その変遷は起伏に富んでいる。親鸞聖人が越後配流の後、常陸国(茨城県)へ移られ、笠岡郡稲田郷に稲田禅坊を開かれた。親鸞はここで真宗の根本聖典である『教行信証』を著わされた。故にこの禅坊を歓喜踊躍山浄土真宗興行寺、略して浄興寺と名づけられた。親鸞は浄興寺に止住十余年、京都へ帰るにあたり、高弟の善性に譲った。

弘長3(1363)年、浄興寺は戦火で全焼したため、寺領のある信州大田庄長沼へ移り、300年にわたって親鸞の法灯を継承したが、再び戦火に遭って永禄10年、越後国高田へ移ったものである。

浄明はその後高田の本坊に移って修行を積んだが、文禄3年、浄興寺門主の命を受けて、その門徒が多数住み、寺領もある弥彦の庄間瀬村へ赴き、間もなく近くの寺泊に一宇を建立して養泉寺と号したのである。浄興寺は祖師親鸞の直流として独自の浄興寺派を存続するが、養泉寺が当初から大谷派か、いつ転派したか定かではない。

代々の住職は檀信徒教化には特に意を用い、著名な他国寺院の宝物開帳を組み合わせて、効果的な布教を行っている。文化年中(1804~17)には水戸の真仏寺・同願入寺・前橋の妙安寺・京都の青蓮院・高田の浄興寺等々で、霊宝の中には親鸞聖人木像(もしくは掛軸)と名号軸が必ず入っていた。

明治元年9月、496戸焼失の大火で羅災したが、檀信徒の積極的な支援で翌2年9月に逸早く立派な本堂が竣工した。また同21年には明治天皇の行在所が客殿として移築(昭和14年復元)され、寺勢は歓喜踊躍の相を呈した。

参考:『寺泊町史あれこれ』山崎龍教 北洋印刷株式会社、1996