養泉寺の客殿について

 養泉寺の客殿の中の部屋は、客僧の間と呼ばれています。江戸時代から寺泊にある名門の旅籠「於しきや五平」の一室です。於しきや五平は明治元年の寺泊の大火で全焼しています(ちなみにこの時、養泉寺も全焼)が、翌年には再建しています。大火に遭った旅館の中で、翌年に再建できたのは於しきや一軒のみだったことから、当時相当の財力があったと思われます。明治40年には最盛期を迎えます。寺泊の旅館の中では、集客力はトップクラスでした。明治40年頃の新聞には、実際に海水浴場と宿泊案内の大きな広告を出しています。しかし昭和初期、家運傾き、廃業しました。その後旅館は売りに出されることになりました。

 

 昭和7年、養泉寺第17代住職の静英は、寺に客殿がないため、於しきや五平の一等座敷を買い取り、移築しました。大町から養泉寺まで約400メートルの距離を、一部を建てたままで運んできたと伝えられています。そのため、築110年ほどの建物であると思われます。

 

 内部は、和室と洋室とが同居する、当時の一番お洒落な建て方です。洋室は窓ガラスの木枠、四隅のR型、ドアノブ、レールの製法、昭和11年購入のソファーが見所です。

 

 和室は丸窓、障子の木枠の細工、朱縁の畳、全て柾目の柱などが見所です。床柱は特に質素で純な部分を用いており、欄間は富士山と京都五山があしらわれています。どちらも当時の日本人の憧れの場所でした。ランプか蝋燭の灯りで幻想的に見せる仕掛けとして使われていたと思われます。

 

 廊下の板にも懐かしさがあります。手摺も天井も当時の杉板を使っており、木目が美しいです。天井板を張るために付いた当時の職人の手の跡が残っています。窓ガラスは通りに面していたため、ご婦人の下半身が下から見えないよう、曇りガラスになっています。ガラスも当時のもので、薄く歪んでいるため、風景がプリズムの様に見えて、当時を忍ばせます。

 

 和室と洋室を隔てる部分は、当時男性の平均身長が155センチメートル、女性が145センチメートルであったといわれていますが、日本人の家屋の真骨頂である、頭を下げる文化が自然に身に付くように作られています。当時の日本人の文化には学ぶべき部分が多いと感じます。